もしも吃音症を持って生まれなかったら。

吃音症とは...

吃音症とは、言葉が円滑に話せない疾病、または障害である。「発語時に言葉が連続して発せられる」、「瞬間あるいは一時的に無音状態が続く」などの症状を示す。
Wikipediaより。)
喋る時に出る頻度はその人の吃音症の重さによって変わる。

 

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吃音症を持って生まれた人ならおそらく1度は思うことであろう。

もし吃音症なんて無かったら...

普通に自由に話すことが出来たら...

自分自身何回こう思ったか分からない。

話すと笑われ、冷たい目線を送られ、馬鹿にされて...その全てが解決する。当たり前の事が当たり前のようにできるようになりたい。小学生の当時、切実に願っていた。

 

そう、小学生の当時は。

しかし現在は少しだけ考えが変わっている。今回のブログはそれについて語りたいと思う。

もし自分に吃音症が無かったら

自分は物心が付いた時から吃音症だったのでこの16年間(現在高校2年)生きてて吃音症が出ずに話せた日は1日たりとも無い。吃音症が無ければ、例えばお店に行った時何の苦労も無く注文が出来る。ありがとうございます、が簡単に言える。 そしてなりよりも馬鹿にされる事が無くなる。 これが今回一番話の軸になってくる。

...しかし今の自分にとっても非常に魅力的である。

吃音症が無かったら、ということは今まで吃音症で受けてきた仕打ちも経験も無くなる

という事と同じ意味でもある。

どういう事かと言うと、吃音症が無い場合僕は当たり前の事が当然のように出来る普通の人間になる事ができる。

今まで僕を散々馬鹿にし、笑ってきた「普通の人間」の側になる事ができる。

もちろん、そうでない人もいた。けれど僕の人生だとごく少数の人間であった。この人達は間違いなく「普通」ではないと思う。少なくとも僕はそう思う。

これまで生きてきた経験の中で僕は他人ができないことを笑う、馬鹿にする、下に見ることが一番愚かな行為だと思っている。 そういう人は醜い人間だと思っている。自分の中の当たり前、は他人にとってそうとは限らない。だから他人を表面だけで決めつけず、互いに尊重するべきだと感じている。

ここでふと思うことがある。

この考えを「普通の人間」として生まれてきた時、はたして持つことができただろうか?

吃音症じゃなければ、当たり前ができない事の苦しみは間違いなく知ることができなかった。そもそも今の時代でもイジメや差別が無くならない。結局、自分自身で体験しないと苦しみは分からないのである。

もし「普通の人間」として生まれた時、僕は他人を尊重すべきという考えを持てたのだろうか? 例えば吃音症の人と話した時、受け入れる事ができていたのか? 何となく分かる。

今の自分が嫌う醜い人間になっていたのではないだろうか。

 

かと言って吃音症になってよかった、とは口を裂けても言えない。自殺を考えた時も本気であったし、あの過去の苦しみは忘れる事はないだろう。

結局、吃音症も自分のステータスなのである。ずっと嫌っていたこの吃音症も、向き合ってみると少しは変わるかもしれない。

 

一生治ることもないかもしれないけど、それでも前を向いて生きていきたい。 ...麦茶