簡単に出来る!だるさを和らげる身体に優しい8つの方法
日々にできる癒しとは?
「ああ、体が重いなぁ...」
「しんどいなぁ...」
そう思う時、誰にでもありますよね。
仕事や学校での疲れに加えて自炊や勉強などの+αの作業。
毎日がよし、今日もやるぞ! といった体力を持っているのはごく少数ではないんでしょうか?
休みたい。しかしそんなゆっくり旅行や趣味を楽しむ時間がすぐにとれない。。。
今回は即莫大な効果はないものの毎日意識する事で身体を癒したり、たまーにやる事で活力が湧いてくるという要点で
できるだけ簡単にできてなおかつ時間も取らないものを8つ集めました。
数字が少ないほど簡単にできるようにしました。
一つずつ紹介していきます。
1 深呼吸する
ラジオ体操にも取り組まれていますよね。
簡単にできる割に効果は凄いんですよ、これ。
- 体の全体に酸素が取り込まれるため、血液が促進され基礎代謝が上昇する。
- 自律神経を整える働きがあるのでリラックス効果がある。
睡眠方法に深呼吸する、呼吸に集中するというものがあるんですがこれはリラックス効果によるものです。
体操にも取り組まれているくらいです、効果は強力です!
時間もお金もかからずとにかくメリットしかありませんね!
2 手を当てる
これはそのままの意味です。
ああ、頭が痛い...となって頭に手を当てる。
うっお腹が...となってお腹に手を当てる。
これと同じ事なんですね。
日本では昔から治療する事を手当てと呼んでいます。怪我や病気の場所に手を当てるという行為は古くから使用されてきました。
考えすぎて頭がヒートアップした時に何も考えず目を閉じて頭に手を1分ほど当ててみてください。
気休め程度ですが、効果は期待できます。
3 瞑想する
やり始めるとハマるかも?
瞑想はとても効果があり、習慣化すれば大きな変化があるでしょう。
自分の呼吸に集中して何も考えない事が大切です。
1日5分でも効果があるとされています。
例えば今日は失敗してしまい、悲観的になっている時でも瞑想をすれば心の流れを整理する事で断ち切ることが出来ます。
身体にも良い影響があり、雑念に惑わされなくなるためストレスの減少、また自分に自信が持てるなど 心身共に良い効果が期待できますね!
4 お茶を飲む
お茶は種類が豊富!
お茶?そんなの飲んで何になるの?
と思う方もいるでしょう。
しかしお茶というものは健康にとても良いのです。
緑茶は体に良い、なんて事は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
お茶ウガイ、というものもありましたね。
他にもお茶の種類によって効果は変わっていきます。
...ここで紹介したのはほんの一部ですが、茶葉をあらかじめ用意しておいてティータイムというものを設けてみるのも良いかもしれません。
5ー1 描く
アートセラピーというものを知ってますか?
絵画や創作といった芸術活動を通して、気持ちを出したり心を浄化すると言ったもの。
これをする事でストレスを発散しよう!ということですね。
え?芸術なんてできない...と言う方でもそこまで深く考えずに
色鉛筆と白い紙用意して自分の自由に描くだけでも充分なのです。
そこは他人が入れない、あなただけの世界です。思いっきりぶちまけましょう。
5ー2 書く
こっちも似たようなものです。
紙やスマホのメモ帳でも良いので用意をします。
そこに思いっきり自分の思っていることを書いていきましょう。
自分を責めたりせず、ムカつく奴の悪口をそのまま出しましょう!
とにかく自分の気持ちを吐き出すことに集中しましょう。
気が済んだら、ビリビリに破いたり思いっきり丸めたりしてゴミ箱に放り込んで
「よし、スッキリ!」
と思って切り替えていきましょう。
6 湯船に入る
温泉は身体を癒してくれます。露天風呂は最高ですよね!
お風呂、ちゃんと入ってますか?
時間がないからといってシャワーで済ませてませんか?
たまには湯船にゆっくりと入ってみましょう。
湯船には筋肉をほぐしてくれる効果や血液を循環させるあります。
ガチガチに固まった肩や肩甲骨を休めてあげましょう。
自分の好きな香りの入浴剤を放り込んでも良いですね。
風呂から上がったあとは自分の好きな飲み物や冷やしておいたジュースを飲んでもリラックス効果が期待できます。
7 香りを嗅ぐ
気分転換としての方法で「アロマ」というものを聞いたことがあるかもしれません。
例えばラベンダーの香りを嗅ぐと落ち着く。
好きな香りを嗅ぐと脳に良いというデータがあるそうです。
実際に楽しむ方法として
- 香水
- 風呂の入浴剤の香り
- ルームスプレー
- 匂い袋(サシュ)
などが候補にあります。
8 人に会う/話す
え?どういう事?と思うかもしれません。
情熱的な人に会うとモチベーションが上がる。
憧れの人と話すとよし!やるぞ!となる。
このように思いは人から人へ伝染していきます。
日々の生活に
「なんかもの足りないな....」
「やる気か出ないな...」
という方は人に会えるイベントやセミナーに足を運んでも良いかもしれません。
話す、という方はそこまで大袈裟な話ではなくて家族や友人に相談するということです。
1人で不安をかかえていると
「これからどうしよう...」とやるせない不安が無限に湧いてしまうものです。
そんな時は信頼できるもしくは親しい人に相談してみましょう。
自分で話してみると案外気持ちの整理がついたり、気分が楽になって前を向くことができるでしょう!
ーーー
最後に
気分が良いと全てが美しく見えます。
いかがでしたでしょうか。
正直
あれ?こんだけ?
と思った方も多いでしょうね。
健康や心は普段すり減っていきます。
だからこそ、日々簡単なものでも良いので継続することが大切であると思います。
自分の身体は自分にしか気付いてやれないのです。
疲れた時は、思いっきり自分へのご褒美を与えてやってください。
そしてまた前を向いて歩いていきましょう!
趣味において「質と量」はどっちが大切?PDCAサイクルを活用しよう!
質を取るか量を取るか。
趣味を持ってる人はこういった悩みを持ったことがあるのではないか。
自分はイラスト、写真、筋トレ、ブログなど複数個の趣味を持っている。
そんな自分が体感したのは
結論からいうと「例外を除いて」量である。
詳しく説明していこうと思う。
量は質に転換する
「量」を重視するのは大きな理由がありそれは量は質に転換するが、質は量に転換されない。 ということである。
...つまりどういうこと?
勉強ならたくさん問題を解く。
芸術ならたくさん絵を描く。
こうしてこなした「量」が経験となり、自分に身についてそこから「質」が向上する。
というもの。
これは量質転化の法則とも言われている。
逆に例えば3時間かけて1問を解いてもそれは「量」にならない。
ーーー
量をこなすなら「PDCAサイクル」を使え!
PDCAサイクル とは
P 計画
D 実行
C チェック
A 改善
をループさせるというものである。
なんでこれを使う必要があるの?量だけこなせばよくない?
と思うかもしれない。
しかし勉強でも何も考えずに答えを丸写しして
量を重ねました!
といっても身につく訳がない。
つまり量を重ねるにしても微量の「質」は必要なのである。
勉強なら
P 算数の割り算を理解する!(計画)
D そのためにワークを解く!(実行)
C それでちゃんと理解出来たのか?(チェック)
A 今回の勉強方法はよかったのか?(改善)
という感じで
答えを見て量をこなすなどの間違った方法ではなく、正しい方法で量をこなして始めて成果が出るのである。
一部の例外
例外として一番分かりやすいのが筋トレである。
筋肉には超回復という仕組みがある。
ざっくり言うと
筋トレして筋肉の繊維を壊す
↓
ここで超回復
↓
筋肉がトレーニング前より強くなる!
というものである。
しかし超回復には48時間~72時間必要とされている。(諸説あり)
つまりここで量が大事!となりうおおお毎日やるぞ!となっても
筋肉が回復せずむしろ減り続ける
という悲惨な結果になってしまうのである。
毎日するとしたら、上半身を鍛えた次の日は下半身のトレーニングをするといった工夫が必要である。
最後に
結局は趣味の範囲なら自分が楽しむ事が第1なので
量?質?知るか!俺は好きなようにやる!
というのも全然問題ないのである。
このブログも「量」を優先してるため、毎日投稿を続けている最中だし、継続していくつもりだ。
「継続とは力なり」
「塵も積もれば山となる」
といった言葉があるように結局積み重ねが一番の力になるのかもしれない。
~勉強をやる気に左右されず効率よくできる方法とは?~
自分は勉強が大嫌いである。
ガムシャラにやろうと思っても全く続かなかった。
「今日こそやるぞ!」
そう決意した30分後にはいつの間にかスマートフォンに時間を吸われていた。
そこで今回は自分でやってみて効果が体感できた物をいくつかピックアップして紹介していきたい。
1 ポモドーロテクニック
これは25分取り組み、5分休憩というサイクルを繰り返す方法である。
調べてみると、一般人の集中力が持つのは最大でも90分。
しかし「集中力の波」というものが存在するらしく、これは15分ごとに来る。
年齢が低い小学生の頃はこれがハッキリと見えるが、成長していくにつれてこの波を耐えてまた集中力が復帰する という仕組みだそうだ。
つまり集中力が落ちてきた所に5分の休憩を挟み、集中できる時間を増やしているという原理だと思う。
この方法はかなり効果的であった。
ただし休憩の際スマホはおすすめできない。ついつい見すぎてしまって、5分休憩が50分休憩くらいになってる事があった。
なので自分の好きな飲み物(自分の場合りんごジュース)とつまめる食べ物(チョコレート、クッキーなど)を用意してのんびり過ごすのがモチベーションにもなって一番安定した。
2 運動を組み込む
実は運動しながら英単語、歴史の人名などのいわゆる暗記学習は、動きながらすると良いというデータがある。
運動と言っても室内をグルグル歩きながらひたすらぶつぶつ言う、程度でも大きく効果がある。
外に出て光を浴びながら散歩やウォーキングをしても気分転換になるので良いかもしれない。
3 朝に早起きしてやる
朝は脳内の記憶が整理された後なのでスッキリとしているし、エネルギーもある。
受験期の頃、自分は朝に強いタイプの人間だったので学校に行く前の時間で実践していた。
疲れが取れた直後なので爽やかな気分で取り組むことができた。
ちなみに朝食を取った後の方が体にエンジンがかかった気がしてやりやすかった。
4 無理矢理にでも習慣化する
自然と風呂に入ったり歯磨きをするように人間は毎日続けると「習慣」として定着する機能がある。
毎日決まった時間に勉強をするのを続けるといずれ習慣化して自然とやるようになる。
ただし習慣化するまではやる気に左右されがちなので自分の好きな音楽をかけたり、短い時間でも簡単な勉強でも良いから続けるなどの工夫がいる。
自分は朝の勉強と21時~22時の時間を習慣化していた。
5 最初は得意科目から
やり始めると良いのだが、それまでは中々机に向かう気にならない日もある。
そういう時は得意科目をエンジンとして対処していた。
苦手科目や面倒な物だとどうしても始める前から気が滅入ってしまう。
一回やり始めればそこから先ほど紹介したポモドーロテクニックを使用すれば継続する事ができる。
最後に
結局勉強というのは目標があるからこそ輝くものだと思っている。
志望校に合格したい!
この資格を取りたい!
といったもの。
辛い時は1度勉強をする理由を振り返って自分と向き合うと良いのかもしれない。
人間関係での「他人に期待しない」という考えははたして良いのだろうか
「なんだよあいつ、むかつくなぁ」
「なんて常識のない奴なんだ」
「お前が勝手にしたことだろ!」
こう思うことは誰もが1度はあるはずだ。 仏みたいな性格をしている人格者ならそうじゃないかもしれない。けど世の中の大半の人は人間関係に悩むであろう。
人間関係。自分の場合は吃音症という事もあり人1倍苦労している自信がある。
吃音症とは...
吃音症とは、言葉が円滑に話せない疾病、または障害である。「発語時に言葉が連続して発せられる」、「瞬間あるいは一時的に無音状態が続く」などの症状を示す。
(Wikipediaより。)
喋る時に出る頻度はその人の吃音症の重さによって変わる。
ーーー
そんな自分が編み出した人間関係の対策として「他人に期待しない」というものがある。
検索すると、結構出てくるので割とメジャーな考え方なのかもしれない。
前提としてこの考え方は個人的に何らかの原因で人と対立してしまうというというのを自分自身をコントロールする事で対立しなくするという認識である。
今回は実際に感じた事を交えつつ話していこうと思う。
ーーー
実際感じたこと
この方法を編み出して最初に実感した効果は怒らなくなった事。
言葉で表すことが難しいけど、「期待しない」という考え方で大抵の事は流すことができる。
これにより人間関係が拗れる事は無く今まで過ごせている。
人と対立しなければまず拗れる事は無い。
この2つがメインとなるメリットだと感じている。
しかしそれに伴った致命的なデメリットも2つ。
ーーー
デメリット
1つはストレスが溜まる という事。
何かが起こる→ストレスとなる→反論する(ストレスの発散)
というプロセスには変わりないので、溜まるもんは溜まっていく。
もう1つは自分の本音、感情をぶつける機会が減る という事。
単純に考えるとこの考え方は自分を抑えて相手を流す、というスタイルなので当然といえば当然である。
考察
ーーー
結局この方法は自分を犠牲にすることで成り立っているのである。
本当にウマの合わない人や、面倒な人には有効かもしれないが、普段から使うのはおすすめできない。
とはいっても自分自身この方法を普段から使っているが、知り合い以上友達以下 というような人達が大量にいる。 学校では話したりペアを組んだり冗談を言い合う仲だけど、一緒に遊んだりすることは一切ない。そんな関係だがプライベート第一な自分にとって快適すぎて満足している。
やはり友人というのは自分自身を出していって初めてウマの合う相手が見つかってそこから発展していくものだと思う。
時には対立するだろうけど、それも「友人」というものだと思う。
せめて必要な場面だけでも、主張できるようになっていきたいと感じた。
もしも吃音症を持って生まれなかったら。
吃音症とは...
吃音症とは、言葉が円滑に話せない疾病、または障害である。「発語時に言葉が連続して発せられる」、「瞬間あるいは一時的に無音状態が続く」などの症状を示す。
(Wikipediaより。)
喋る時に出る頻度はその人の吃音症の重さによって変わる。
ーーー
吃音症を持って生まれた人ならおそらく1度は思うことであろう。
もし吃音症なんて無かったら...
普通に自由に話すことが出来たら...
自分自身何回こう思ったか分からない。
話すと笑われ、冷たい目線を送られ、馬鹿にされて...その全てが解決する。当たり前の事が当たり前のようにできるようになりたい。小学生の当時、切実に願っていた。
そう、小学生の当時は。
しかし現在は少しだけ考えが変わっている。今回のブログはそれについて語りたいと思う。
もし自分に吃音症が無かったら
自分は物心が付いた時から吃音症だったのでこの16年間(現在高校2年)生きてて吃音症が出ずに話せた日は1日たりとも無い。吃音症が無ければ、例えばお店に行った時何の苦労も無く注文が出来る。ありがとうございます、が簡単に言える。 そしてなりよりも馬鹿にされる事が無くなる。 これが今回一番話の軸になってくる。
...しかし今の自分にとっても非常に魅力的である。
吃音症が無かったら、ということは今まで吃音症で受けてきた仕打ちも経験も無くなる
という事と同じ意味でもある。
どういう事かと言うと、吃音症が無い場合僕は当たり前の事が当然のように出来る普通の人間になる事ができる。
今まで僕を散々馬鹿にし、笑ってきた「普通の人間」の側になる事ができる。
もちろん、そうでない人もいた。けれど僕の人生だとごく少数の人間であった。この人達は間違いなく「普通」ではないと思う。少なくとも僕はそう思う。
これまで生きてきた経験の中で僕は他人ができないことを笑う、馬鹿にする、下に見ることが一番愚かな行為だと思っている。 そういう人は醜い人間だと思っている。自分の中の当たり前、は他人にとってそうとは限らない。だから他人を表面だけで決めつけず、互いに尊重するべきだと感じている。
ここでふと思うことがある。
この考えを「普通の人間」として生まれてきた時、はたして持つことができただろうか?
吃音症じゃなければ、当たり前ができない事の苦しみは間違いなく知ることができなかった。そもそも今の時代でもイジメや差別が無くならない。結局、自分自身で体験しないと苦しみは分からないのである。
もし「普通の人間」として生まれた時、僕は他人を尊重すべきという考えを持てたのだろうか? 例えば吃音症の人と話した時、受け入れる事ができていたのか? 何となく分かる。
今の自分が嫌う醜い人間になっていたのではないだろうか。
かと言って吃音症になってよかった、とは口を裂けても言えない。自殺を考えた時も本気であったし、あの過去の苦しみは忘れる事はないだろう。
結局、吃音症も自分のステータスなのである。ずっと嫌っていたこの吃音症も、向き合ってみると少しは変わるかもしれない。
一生治ることもないかもしれないけど、それでも前を向いて生きていきたい。 ...麦茶
吃音症を持って生まれた平凡な高校生の生い立ち
自分は吃音症だ。
吃音症って?という方は声を出す時にちょっとした出る障害程度の認識で構いません。
(ざっくり例を上げるとこんにちは、がこここここんにちはとなったり.....!..こんにちは!と手前が詰まってしまう障害。)
吃音症が出たのは物心が付いた頃からだった。幼稚園の頃を微かに覚えているが、その時は特に何の感情も持ってなかった。この頃の子供の常識なんて自分の中の物が全てである。話せないのが普通、それがぼくの日常であった。周りの子もあんまり気にしてなかったように見える。
だが、小学生に上がるとそうはいかない。
1年生になると僕の話し方を真似してきたり笑ったりしてくる奴が現れた。自分の中の物が常識。今まで当たり前に話してきた人にとってはとても滑稽に見えたことだろう。 しかしこれは鮮明に覚えているのだけれど、それに対して怒ったり悲しんだりはしてなかった。理由は自分もわからない。
変化が出たのは2年生からだった。これも鮮明に覚えている。お遊戯会の役決めの時、僕が話したら笑ってくる女がいた。その時体の底から何かが湧き上がってくるのをはっきりと感じた。悔しい。腹が立つ。 そこから自分は「普通」じゃない事をはっきりと分かっていった。
それからの小学校生活は酷いものだった。
異性の女子から悪口を言われるイジメが続いた。
教師も児童をストレス発散の道具としかみてない奴らばっかりで当然イジメは無くならないし、障害の理解もない。
死ね ストーカー きもい
とにかく理不尽な事ばっか言われていた。
今でも忘れられないのが
「その声で話しかけないで」
という罵倒であった。
そういう事があったのか元々の性格かは知らないけれどほとんど団体で遊ぶスポーツはしなかったし根暗でけれどイジメに反撃する勇気もないいわゆる真面目な生徒という今のところの"陰キャ"であった。
中学校は地元の小学校3つの生徒が通う所だった。親が医者、英才教育を受けた子は別の中学校に行っていたがごくわずかであった。
ちなみに小中学校の地域は治安が良いとは世辞にも言えないレベルである。
僕は変わらず陰キャ生活だったが小学校では入らなかった部活に入った。
これが自分の考えを大きく変えることになる。
入った部活は将棋部だったのだがそこの人達がみんな良い人ばかりであった。今まで口を開けば笑われてた人生を歩んでいた自分にとってとても衝撃的であった。
「ああ、受け入れてくれる人もいるんだな。」
初めてそう思った。
将棋部としては強豪でもなんともなく、半分雑談してるくらい緩かったけど、中学校の思い出で唯一楽しかったものだった。
治安が悪い地区で不登校の生徒や不良気味の生徒も多い中、教師の人達はとても熱心で良い人だった。
障害について話すと理解をしてくれたし、声をかけてもらったりとかなり良く見てもらっていたと思う。
「真摯に向き合ってくれる他人の大人もいるんだな。」
小学校のクソみたいな教師と過ごしてきたのと大人の中だと親にしか理解されなかった自分の人生にとってこれも衝撃的だった。
何だかんだで中学校から離れた第一志望の高校に合格して、吃音症も先生に診てもらってから昔にくらべてマシになった。性格も大分明るくなり、友達もそこそこできて、まあまあな毎日を過ごしている。
これから吃音症と生活していく中での感じた思考、実際の話、昔話を交えながらこのブログを続けていきたいと思ってます。
よろしくお願いします。